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豊原国周 葉うた虎之巻

 手元の資料に、「大阪美髪女学校」発行の『結髪講義要領』という本があります。初版は大正十一年。(資料は昭和七年版)当時の美容学校の教科書です。洋髪や美顔術についても書かれていますが、内容のほとんどは江戸から続く日本髪の結い方。明治・大正という時代を経て昭和に入っても、女性の髪型はあまり変わっていなかったようです。

 この教科書の中に「女髪結師の始源」という項目があり、たいへん興味深い内容なのでご紹介したいと思います。

*ここには女髪結いの始まりは江戸とありますが、実際は上方の方が先でした。

豊原国周「葉うた虎之巻」

結髪講義要領

結髪講義要領
結髪講義要領

女結髪師の始源(おんなかみゆひのはじめ)

我国は御承知の通り往昔は男女とも髪を結って居たのです。

モット極く古い時代になりますと、男は美豆羅(みづら)と云って丁度 聖徳太子の結んで居られた様な髪、即ち頭の左右に輪を作り中央から分けて居る神様風の髪を結って居たのですが、女は単に垂れ髪でありました。

この様な日本の男女の髪容(かみかたち)の古い時代から今日に至る迄の移り変わりの話は別に致しまして、今大略(いまあらまし)何時頃から何の様にして女髪結ひなる職業が出来たかと云ふだけをお話致しませふ。

尤(もっと)もこの話とても随分込み入った難しい事があって詳細申し述べたなれば、到底此の一冊の小冊子を此の話に費やしても尚足りません。

故に筋の通った所だけを御参考までに書き上げませう。

此の女髪結ひの職業の始まりは江戸 即(すなわ)ち今の東京に於いて今を去る三百余年前 、丁度寛永七年頃に、江戸の粋街(いろまち)深川榮木と云う所に、女形俳優でそして假蔓(かりかづら)を結ふて居た山下金作と云ふ男がありました。

此の男は至って上方風 即ち京都大阪へんの芸妓風の髪を上手に結ふので、深川芸妓が或る日の事面白半分に此の金作から蔓風の髪を結ふて貰った所、頗る(すこぶる)それが良く似合ったのみか、之を見た他の芸妓等も『妾(わた)しにも結うて下さい。妾にも…』と云った訳で金作は其の後毎日の様に芸妓等からお礼を貰って髪を結ふて居たが、終には本職の俳優も蔓(かづら)附けも廃(や)めて全然(まるっきり)髪結ひに成り澄まし、髪一つ結ふ賃金を二百文と定めて日々繁盛して居りましたが、迚(とて)も一人では手が廻り兼ねるので甚吉と云ふ男弟子を置きました。

この甚吉が師匠の金作の手元から放れて一本立ちに女の髪を結ふ様になった時、髪一つの結ひ賃を百文に値下げをして主に芸妓仲居と云った様な粋街方面で稼ひで居たので、此の甚吉を「百さん」とアダ名を呼ぶ様になりました。

此の甚吉の百さんは性来(うまれつき)聲(こえ)が非常に美しくて男の聲とは思われず眞貫(ほんと)に女も惚々(ほれぼれ)する聲であったのみならず、容姿(すがた)こそ男であっても其の常日頃の所作が恰度(ちょうど)女の様であったと申します。

今で云ふオトコオナゴと云ふ變質(へんしつ)な性(たち)の男であったのであります。

此の甚吉の百さんは其の後八丁堀の大井戸と云ふ所に一戸を構え、矢張り粋な女の髪許(ばか)りを専門に結って居りましたが、之も手が廻り兼ねてお政と云ふ弟子を置き夫(そ)れに梳かせて自分は髷に掛かって居りました。

其の時分は今の様に客を引付けでなくて日々一軒毎(ごと)お華客(とくい)廻りをして居たと云ふ事です。

今も此廻(とほ)りの髪結さんも多(た)くさんありますが……、丁度此の時分は如何に町方の婦女(をんな)でも髪は自分で皆結ふたもので、他人に結ふて貰ふと云う事は恥の上の恥のみならず、女は自分の髪一通り結へなければ嫁入り口が無かったと云ふ時代でありました。

町方でさえも此の調子ですから、武士の家の婦女となっては一層此の風習(ならはし)が厳しかったのであります。

日に月に年が越(た)って甚吉の女弟子に女弟子が出来、其の女弟子に亦(また)女弟子が出来たと云ふ具合いに追々弟子から弟子が殖え、女が女の髪を結ふ職業(しごと)即ち女髪結ひが盛んになって来ました。

而(しか)して髪結賃も百文から五十文になり三十二文となり二十四文とまで下がりました。

此の甚吉の百が雇入れた弟子と云ふのが先にも云ふた通りで、其の弟子から弟子と順次に女であったのが抑々(そもそも)の女髪結の始め、即ち先祖となって居るのであります。

こんな風で髪結ひが追々殖える傍ら、自分で髪を不自由に結ふよりも此の髪結ひに結ふて貰った方が形も良し、気持ちも良しと云ふ所から、除々(ぼつぼつ)世間に内密で町方の娘や妻が髪結ひを裏木戸から忍ばせて結はせ、如何にも自分で結ふた様な顔付きをして居たものです。

こんな事によって髪結ひは日一日と発達して来たものですが、此の髪結ひ仲間の風儀が悪く、世間知らずの娘に善からぬ事を教えたり、道ならぬ事の仲介をしたりして、人の圓満(えんまん)な家庭を騒がせる事が度々あったので、天保十二三年(今より凡そ九十年前)徳川幕府の水野越前守(えちぜんのかみ)と云ふ役人が爾後(これかれ)一切女は従来(いままで)通り自分の髪は自分で結ふべしと断じて、女髪結ひに結はすべからずとの厳しい命令を世間に発しましたが、仲々何(ど)うして表向きは如何にも結はしませんと云った風で内實(ないじつ)は矢張り結はせて居たのです。

そして其の厳しい命令も何時の程にか骨抜きになって、又候(またぞろ)元々通りに成って今日の情態(ありさま)に立ち至ったのであります。

序(つひで)に申しますが、女の髪結ひは男の髪結ひより少し遅れて世の中に出たもので、男の方は武士の成れの果てが徳川家康の髪を軍場(いくさば)で結ったのが始まりであります。

山下金作「絵本舞台扇」より

勝川春章・一筆斎文調 画

明和7(1770)刊

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