「遊楽人物図貼付屏風」菱川師宣 天和~貞享頃 出光美術館蔵
結髪様式の基本形が完成
江戸前期は鬢付け油の発達により、単純な形ではありますが、結髪が定着した時代といえます。この時期、後世の様々な結髪様式の基本となる髷(兵庫髷・島田髷・勝山髷・笄髷)が根付いていきました。
時代が江戸に入った慶長年間の末、出雲阿国が創始した『かぶき踊り』が一世を風靡しました。その流れから、寛永年間には『若衆歌舞伎』が大流行。後に遊女たちは人目を引く手段として若衆の髪型を真似るようになりました。これが『島田髷』として、日本髪の代表的な髪型の一つになっていきます。
島田髷の起源は、東海道島田宿の遊女が結い始めたという説が有力ですが、他に島田花吉という女歌舞伎から始まったという説、髪を元結いで締め付ける結い方から「しめたわ」が「しまだ」になったという説などがあります。
『勝山髷』は承応・明暦(1652-1658)頃、遊女勝山から始まったとされ、江戸前期から中期半ばまで遊里で盛んに結われました。初期の勝山髷は輪が縦に長く、幅の細いものでしたが、後世になるほど輪が横長になり、幅が広くなっていきます。中期後半頃から武家や一般にも結われ始めますが、広く結われるようになったのは、江戸後期に入り「丸髷」と名を改めてからでした。
『笄髷』は、元は宮中の女官が笄を使って長い下げ髪を巻き付けておく仮の結髪でした。固定化した髪型として庶民に定着したのは貞享・元禄(1684-1703)頃で、一般女性の間で大流行しました。それまで笄は髪を整えたり、頭皮が痒い時に掻くための道具でしたが、笄髷の流行により髪に挿す物となって形が変化し、笄本来の役目は前期の終わり頃から作られるようになった簪(かんざし)に移っていきました。
この時代は、後世のように鬢・髱がまだはっきりと別れていませんでしたが、前髪だけは早くから取り分けられていました。延宝頃までは顔の左右に切り垂らすことが多かったようです。寛文(1661-1673)頃、前髪を立てて元結紙で結んだ「吹前髪(ふきまえがみ)」が流行。元禄(1689-1703)頃からは、ふくらみを無くし引きつけた形になっていきました。
髱(つと・たぼ)は前期中頃までは自然なたるみ程度のものでしたが、延宝頃から長くなっていきます。しかし、この時期まだ髱さしは使われておらず、髱は首筋に添って長く垂れている状態でした。享保元年(1716)の「世間娘容気」には「後ろは花色紬の首巻して、衣裏(襟)のよごれぬ用心し…」と髪の油で襟が汚れないよう工夫している様が描かれています。
鬢(びん)はまだ後世のように独立した形ではなく、髱に自然に添えられるように結われていました。
この時期の結髪風俗の中心は上方で、華美な元禄風俗は江戸ではそれほど普及しませんでした。髷の名前は文献などに色々と残っていますが、結い方や形がはっきりわかっているものはそれほど多くありません。
前期の島田髷 しまだまげ/寛永〜
島田髷は兵庫髷と同様に、男髷の模倣から始まり進化していった結髪であると考えられます。初期の島田髷の形は、若衆髷と同じように髷が水平でした。時代が下るにつれ、髷の前部が上がり、後部が下がるようになります。始めは遊女の髪型でありましたが、庶民に普及すると、その華やかさから若い女性に好まれ多くの種類が生み出されました。
<前期の島田髷>
しめつけ島田、投島田、やつし島田、大島田、中島田、下島田、丸島田、高島田、とりあげ島田 など
しめつけ島田髷「和国百女」より
前期の勝山髷 かつやままげ/承応・明和頃〜
勝山髷の起源には諸説ありますが、承応・明暦(1652-1658)頃、勝山という遊女が結い始めた髪とする説が有力で、井原西鶴の「好色一代男」にもその名が登場します。勝山は武家の出身であったため、屋敷風(武家屋敷の風俗)の結い方をしたものが珍しがられて勝山風と呼ばれるようになり、元禄(1688-1704)頃に遊女の間で流行しました。勝山髷は後期に「丸髷」と名前を変え一斉を風靡しますが、この当時は一般の女性には結われない髪型でした。
勝山髷「歴世女装考」より
前期の笄髷 こうがいまげ/寛文頃〜
笄髷は古くから宮中の女官や御殿女中の間で行われていた「笄」を使って下げ髪をまとめる結い方です。本来はすぐに下げ髪に戻せるよう工夫された仮の結い髪でしたが、次第に固定された髪型として定着していきました。それが貞享・元禄頃に京より諸国に広がり、一般女性の間で流行しました。
「女重宝記」(1692)に「町風は京も田舎も、島田かうがいわげの二色、上らうも下らうも押なべてゆふことに七八十年このかたに及べり」とあり、笄髷が大流行していたことがわかります。
この頃に使われた笄は近代のものと異なり、小型の物や一方が尖った楊枝のような形の物でした。
笄髷 「女用訓蒙図彙」より
前期の兵庫髷
兵庫髷ははじめ遊女の髪でありましたが、寛文(1661-1673)頃には庶民の髪型として定着し流行しました。初期の頃は大型であった髷は、時代が下がるにつれて小型化し落ち着いたものとなります。元禄(1688-1704)頃になると年増の髪とされ、花街や若い女性の間では結われなくなりました。この後、民間では地味で古風な髪型としてほとんど廃れてしまいますが、少しずつ形を変えて一部の遊女の間で細々と結われ続けていきました。
<前期の兵庫髷>
島田兵庫、乱兵庫、つくね兵庫、、こかし、立兵庫の銀杏がしら など
兵庫髷「百人女郎品定」より
その他の髪型
●根結垂髪
武家・民間の両方に結われ、この時期が流行の頂点でありました。通常は品位の高い婦人に結われましたが、一般でも婚礼、五節句、社寺詣などの時には根結いにしたようです。
●垂髪
下げ髪にして、肩のあたりで平元結をかけたもの。上流や富豪の若い娘に結われ、前髪は垂らしたり吹き前髪にしていました。元禄(1688-1704)頃まで結われました。
●玉結び
江戸初期から引続き、貞享(1684-1688)頃には、庶民の間でよく結われた髪型。元禄(1688-1704)末頃に衰退して見られなくなりますが、地方では元禄後も長く結われたようです。
●御所風
結い方ははっきりしませんが、おそらく根結いした下げ髪を折り曲げて輪を作り、丈長を結び、その根元に残りの髪を巻き付けたもので、文字通り御所の女官たちの結髪を模したものと思われます。寛文から享保頃まで、庶民・遊女の間で流行しました。
●ぐる髷
「ぐるぐる」「ぐるり髷」とも言います。根を結び、その周りに髪をぐるぐると巻き付けた単純なもので、元禄(1688-1704)頃まで庶民の間で流行しました。
●遣手
根で結び一束にした髪を、根の周囲を巻き付けた髪型。江戸末期の「おばこ結び」と同じ結い方のようです。元禄(1688-1704)頃には廃れました。
●丸髷(丸曲げ)
「まるわげ」と呼ばれ、後期の「丸髷」とは別の物と考えられます。勝山の輪を正円に近い形にした髪型で、元禄から宝永(1688-1711)頃に流行し、中期初めの享保頃に廃れました。
●その他/吹上げ、吹きかえし、五段髷、四つ折、太夫髷、ねじわげ髪、いちょうわげ、おさんりゅう など
根結い垂髪「百人女郎品定」より
御所風(元禄頃)「和国百女」より
遣手「女用訓蒙図彙」より