揚州周延
江戸時代、女性の帽子は上流階級の実用品だった
花嫁の「綿帽子」と「角隠し」は、和装の花嫁をより優雅に美しく見せてくれる無くてはならないアイテムです。現代では婚礼衣装の一部ですが、この《被り物》、どちらも江戸時代には御殿女中や比較的裕福な女性が外出時に被る日用品でした。
綿帽子は、真綿を引き伸ばして帽子状にしたもの。元々は年配女性が防寒のため頭に乗せた綿の帽子でした(*1)。女髷の発達に伴い頭を包む形になり、塵(ちり)よけ、風よけとしても用いられるようになります。江戸時代後期になると、真綿から絹物へと代わり、練帽子(ねりぼうし)と呼ばれました。
角隠しは、江戸時代に揚帽子(あげぼうし)と呼ばれたものです。「都風俗化粧伝」(1813年)によると、練帽子が簡略化されたものと書かれています(*1)。江戸時代後期には表は白絹、裏は紅絹(もみ)のものが一般的だったようです。
都風俗化粧伝より
綿帽子
練帽子
揚帽子
揚帽子うしろ
(*1)「綿帽子は官女の老いたる人、寒風をしのがんため額にわたを被る。これを額綿とも被綿ともいえり。烏帽子のごとくかぶるゆえ、ぼうしの名あり。今もっぱら被る綿帽子はこの製よりはじまる。これを練ぎぬにて製したるを練帽子などという。これを略し、折りて額にのするをあげ帽子という。これよりぼうしの形、好みによってその製、色々あり。」
(『都風俗化粧伝』より)
▲中老年の女性に用いられた綿帽子(「絵本吾妻花」より)
▲真綿で綿帽子を作る様子(鈴木春信「座敷八景 塗桶暮雪」)
★真綿とは★
蚕の繭を煮たものを広げて乾燥させ綿状にしたもの。生糸にできない屑繭を使います。(屑繭とは、繭の中で蛹が羽化して繭に穴があいてしまったもの、2匹が一つの繭を作ってしまう玉繭などのこと)
真綿は軽くて暖かいので、冬の着物や布団に用いられるほか、薄く伸ばして衣服に入れたり頭にかぶせて帽子にしたりしました。
真綿を薄く伸ばして頭に載せる習慣は中世以前よりあったと言われ、主に中年以上の女性が防寒のため用いたようです。色は白だけでなく、鬱金、浅葱など、色染めしたものもありました。
歌川豊国「愛宕山夏景色」(部分)
寛政2~4年(1790~1792)頃
武家の風俗を踏襲した現代の花嫁衣装
明治以降、庶民の婚礼は武家風を模倣したものになっていきました。文金高島田、花笄、守刀、箱迫、扇子、どれも武家女性の装いから来ています。
綿帽子も武家風を踏襲することから使われるようになったと思われます。武家の婚礼では輿入れの時、顔を隠すために頭に白の被衣(かつぎ)(*5)を被りました。時代が下るにつれ被衣が簡略化されて白練絹の被り物となり、江戸時代後期、練帽子の形になっていきます(*2)。
婚礼で角隠し(揚帽子)を使うようになったのは明治以降です。
(*2)「今世新婦の綿帽子きるは、かつきの略なり。今とてもよきあたりには、かつきを用ゆ」(『嬉遊笑覧』より)
維新前武家祝言式 風俗画報16号(明治23年)より
角隠しは女性のツノを隠す物?
なぜ「揚帽子」が「角隠し」と呼ばれるようになったのかは諸説ありますが、よく言われている「女性のツノを隠すため」というのは、明治以降に作られた俗説のようです。都風俗化粧伝には、「田舎にては、手拭をかしらに戴く、これを角かくしといふて、礼の一つとす。」とあり、この庶民の風俗から来ていると記されています。
歴史学者の江間努氏は、笄が角のように外に出ていること
からの名称であろうと主張しています。
風俗画報 第405号(明治43年)より
また、一向宗信者の女性が参詣時にかぶる黒布の揚帽子からきているという説もあります(*3)。この帽子は「角(すみ)隠し」と呼ばれていました。(角(すみ)とは髪の生え際のこと)どちらも揚げ帽子なので、次第に普通の揚げ帽子のことも「角(すみ)隠し」と呼ぶようになり、文字の読みが「角/すみ」→「角/つの」に変化したというのです。他にも諸説ありますが、私はこの説が真実に近いと思うのですが、いかがでしょう。
近年は洋髪に綿帽子という花嫁さんも多いようですが、せっかくの花嫁姿ですから、ぜひ自分の髪で文金高島田を結って、綿帽子・角隠しを着けていただきたいと思います。和装の美しい花嫁姿を、後の世にも長く伝えていきたいものです。
「一向宗門の婦人、角かくしとかいひて寺参りにかぶる者、綿ぼうしの遺風なるべし」(『嬉遊笑覧』より)
「一向宗御正忌とて男子は肩衣を着し、女子は晒し木綿、或は布・西洋布の類を以て頭にかつき、是をおよほしといひ、俗にすみ手拭また角かくしと異名す。(『長崎歳時記』より)
(*3)
都風俗化粧伝より
角帽子
大坂後室(ごけ)帽子
丸輪帽子
大坂帽子
丸輪揚帽子
大坂帽子の小形
袖わた(被わた?)
お染帽子
やしき頭巾
手ぬぐい
被(かずき)
被うら
その他の被り物
江戸時代には帽子以外にも、笠や頭巾、手拭い、被衣(かずき)(*5)などの被り物がありました。手拭いを除いて、どれも元々は身分の高い人々や裕福な町人が使う物でしたが、次第に庶民にも普及していきました。中でも歌舞伎の人気女形が役の中で使用した帽子が評判に。古今帽子、沢之丞帽子、やでん帽子、水木帽子、あやめ帽子、瀬川帽子など、人気女形の名を冠した帽子が若い女性の間で流行しました。
輪帽子と菅笠
(「絵本常盤草草」より)
袖頭巾
(鈴木春信「雪中相合傘」より)
瀬川帽子
(清満「瀬川菊之丞 小山田太郎妹おわた」より)
享保年間(1716〜1736)瀬川菊之丞が舞台で使用した帽子が流行。紫や浅葱色などの染め布が用いられた。
文政期に書かれた「嬉遊笑覧」には、数多くの被り物の名称が登場します(*6)。中には透けるほどに薄い綿帽子の「ぼんぼり綿」
(*7)という物も。最近は洋髪用のオーガンジーの綿帽子がありますが、同じような物が古くからあったのでしょうか。
被衣
(「絵本浅香山」より)
(*5)被衣/被(かつぎ・かずき)とは平安時代頃から始まった風習で、上流階級の女性が顔を隠すため、外出時に衣を頭から被ること(きぬかつぎ)、またその衣のこと。鎌倉時代以降は庶民の間でも広く用いられました。
しかし、増上寺での将軍家の法事で、被衣で顔を隠し参詣人に紛れた者が松平伊豆守に狼藉を働く事件があったため、江戸では明暦2年(1656)に被衣で顔を隠すことが禁じられました。京都では安永4年(1775)にかぶりものの禁制触書が出るまで、地方ではその後も数年は着用されていたようです。
江戸時代中期、女性の髷が大きくなると、二本足の付いた被衣受け(被衣笄)を髪に挿して、その上から被衣を被りました。
被衣笄
(*6)「嬉遊笑覧」の被り物の一例
『衣食住記』(享保より天明に至る)、「元文の頃迄は綿ぼうし・丸わた・舟わた・瀬川わた、其後ちりめん・羽二重・紫ぼうし・浅黄ぼうし・白練に紅裏ぼうし、宝暦の頃黒ぼうし・御高祖頭巾・夫よりむきつらになりたり。元文の頃迄は女のかぶりものなしに出ありくことなかりしに、いつとなくかぶりものは止、安永の頃よりそろそろと御堂ぼうし・御堂わた・一向ぼうし共いへり」と有。若き女、白練紅裏のぼうし着る頃も、年少したけたる女は綿ぼうし也。
(*7)「また、古くぼんぼり綿といふあり。丸わたの薄く透ぬるを云にや。」
上野花見の女を云内、「御所の女中は云々。ぼんぼり丸わたわけよくかぶり云々。」(『嬉遊笑覧』より)