「束髪美人競」楊洲周延
着物と洋服、伝統的な日本髪と新しい束髪
明治は二つのスタイルが共存した時代
明治に入り、男子の断髪令(明治4年)が出されるなど、男性の髪風俗が大転換期を迎えたのに対し、女性の髪型に大きな変化はなく、ほとんど江戸期の延長であったと言えます。とはいえ、新しい時代の波は女性にも影響を及ぼし、一部に古い結髪スタイルを捨て、髪を短く切る女性たちが現れました。明治5年の「新聞雑誌」には「近頃府下にて往々女子の断髪する者あり、…あたら黒髪を切り捨て開化の姿とか色気を離るるとか思ひて、すまし顔なるは実に片腹痛き業なり。」と嘆いています。一方、「開化新聞」には「女の断髪は櫛や笄の虚飾と油や元結等の冗費を去るのだ。」とあり、賛否両論あったようです。
明治16年、鹿鳴館が作られ、貴族や上流階級に洋装が取り入れられるようになりました。それに伴い西洋風の髪型が結われるようになります。しかし、一般女性は着物姿に日本髪がほとんどでした。
明治18年には、『婦人束髪会』が結成され、日本髪の弊害を説き、束髪の啓蒙運動を行いました。ここで云う「束髪」とは、三つ編みを結い上げて髷にしたり、髪を捻り上げて毛先を巻き込んだりしたもの。それまでの日本髪より軽く、簡単に結えるのが特徴で、「西洋上げ巻」「西洋下げ巻」「まがれ糸」「英吉利結び」などがありました。
明治27年、日清戦争が始まると、「西洋の模倣はやめよう」という気運が高まり、日本髪が再び支持されることになります。この頃、鬢や髱は無いものの形が日本髪風だった『あげまき(花月巻・夜会結び)』が流行しました。
その後、前髪に「あんこ」という芯を入れて大きく膨らませた「ひさし髪」といわれる束髪が流行。これは前髪、鬢、髱を別々に結わず一体にして、平均的に膨らましたもので、「おでこ隠し」とも呼ばれました。この髷に大きなリボンを付けた女学生スタイルも流行しました。
また、明治37年に日露戦争が始まり、日本軍が旅順の最高地である二百三高地を奪取した時は、髷の部分を高く立てた「二百三高地髷」が流行しました。その後も多くの新しい束髪が考案されていきます。明治時代は、束髪と日本髪が共存した過渡期の時代でありました。
婦人束髪会 明治18年 豊原国周
風俗画報「浪速女の髪かたち」前田香雪
洋装が増えるに伴い、個性重視の新しい髪型が創作され
ついには断髪のモダンガールが登場
時代が大正になると、女性の社会進出などライフスタイルの変化から、日本髪より軽く手間のかからない束髪を結う女性が増えていきました。明治に続きこの頃も定番の束髪は「ひさし髪」。髷部分のアレンジで、「大正巻」「改元巻」「九重巻」などの種類がありました。
日本髪よりは軽く手軽になった束髪でしたが、この頃までは すき毛やあんこをたっぷり入れた大きなものでした。そこに登場したのが、帝劇の女優達が結った「七三女優髷」。前髪を七三、または六四に割ったすっきりしたもので、詰め物をしないため束髪より更に軽く、楽に結えて便利な髪型でした。ボリュームが無いので華やかさはありませんが、この個性的な束髪の登場以降、個性重視の新しい髪型が次々に創作されていきました。
大正8〜9年頃になると、髪にウェーブをつけた「耳かくし」が大流行します。洋服を着る女性が増えたとはいえ、この頃はまだ着物姿も多く、洋服和服の両方に合うこの髪型は、昭和の初期まで流行が続きました。10年頃には鏝(こて)でウェーブをつける方法が広まり、今までに無かった斬新さが女性たちの心を捉えます。また、ボリュームの無い束髪が着物には貧弱に見えることから、逆毛やシャグマを使い髪を高く盛り上げる「髷なし」も流行。ひさし部分が大きすぎて髷が見当たらないという意味から、別名「行方不明」と呼ばれました。
大正末期になると、「断髪」のモダン・ガール(モガ)と呼ばれる女性たちが登場。流行の最先端として、新しい時代を切り開いていきました。
ひさし髪「結髪講義要領」より
(大正11年)
耳隠し「結髪講義要領」より
(大正11年)
スイトピー「結髪講義要領」より
(大正11年)