top of page
古より続く女性の成人儀式

髪上(かみあげ)と鬢批(びんそぎ)

年中行事絵巻.jpeg

年中行事絵巻 御燈・内宴(部分)原在明筆 天保 11 年(1840)/陽明文庫所蔵

​髪上げ姿の妓女

奈良〜平安.png

男性が元服して髷を結うように、

奈良時代から平安時代にかけて、女性も成人の証として髪を結い上げる風習がありました。

結婚したこと、又は結婚できる年齢になったことを髪型で示すものでした。

髪上(かみあげ)

●奈良時代から平安時代前期

 女性の元服にあたる儀式「裳着」は、物語などによく登場しますが、奈良時代から平安時代初期にかけて、もうひとつ、重要な成人儀式がありました。

それが「髪上(かみあげ)」です。

 

 「髪上」とは、それまで垂らしていた髪を初めて結い上げる儀式。裳着と一緒に行ったようです。結婚できる年頃になったことを示し、多くは結婚してから夫(結婚前の場合は婚約者)の手で結い上げてもらいました。婚約者がいない者は父兄などが結いました。

 

万葉集(巻十六)   

 橘の寺の長屋に率寝(ゐね)し

  童女放髪(うなゐはなり)は髪あげつらむか  

 

(訳)橘の寺の長屋で共に寝た童女髪の少女は、

   今ごろはもう髪上げして誰かの妻に

   なっているだろうか

 

竹取物語  

 三月ばかりなる程に よき程なる人になりぬれば 

  髪上げなどさうして 髪上げさせ裳着す

 

(訳)三か月ほど経った頃に、人並みの背丈の人に

   なったので、髪上げなどの儀式を手配して、

   髪を結い上げさせ裳を着せ、成人の儀式をした。

 

伊勢物語「筒井筒」  

 くらべこし振分髪も肩過ぎぬ 

  君ならずしてたれかあぐべき

 

(訳)あなたと長さを比べ合ってきた私の

   振り分け髪も肩を過ぎました。あなたで

   なくて誰が私の髪を結い上げるでしょうか

   (あなた以外にはいません)。

※振分髪(ふりわけがみ)/ 十三、四歳くらいまでの子供の髪型。男女ともに髪が伸びて頸を過ぎると頭上で髪を左右に分けた。髪が伸びると多くは頭の後ろで束ねていた。

振り分け髪.png
髪上イメージ画像.jpg

筒井筒の少女が髪上げしたイメージで結ってみました。 こんな感じだったでしょうか。

 これらの歌が示すように、髪を結い上げることは女性の成人を意味し、夫を持った、又は結婚できるようになったという意味でした。 

 

 それでは、この髪上はどのようなものだったのでしょうか。奈良時代は唐風の風俗を積極的に取り入れていたため、髪型にもその影響が色濃く反映されたと思われます。

 詳しい結い方が当時の文献に残っているわけではありませんが、正倉院宝物の「鳥毛立女図屏風」や平安時代初期作の薬師寺蔵神功皇后像、仲津媛像などを参考に、次のようなものだったと考えられています。  

根(髻)

髪上げ図2.png

頭頂に根(髻)を作り、垂髪をいくつかの部分に分ける

垂らした髪の先を持ち上げて、頭頂の根に集めて一束にする。

一束にした髪を折り曲げて巻き納める。もしくは後ろに垂らす。

鳥毛立女図・神功皇后像.jpg

鳥毛立女図屏風

薬師寺八幡神社 神功皇后像

李賢墓壁画.jpg

「章懐太子李賢」墓壁画 唐代

下図は平安時代末期の「年中行事絵巻」の妓女の舞姿(上部画像の部分/画像は江戸時代の模本)。唐風の髪型に美しい宝冠を付けています。

五節の舞姫.jpg

年中行事絵巻 御燈・内宴(部分)原在明筆/陽明文庫所蔵

平安中期以降.png

遣唐使が廃止され、唐風から国風文化に移行するに伴い、髪上(かみあげ)は鬢批​(びんそぎ)に変化します。

室町時代以降は女性の成人儀式の一つとして宮廷、堂上家、将軍家、大名家などに引き継がれ、

江戸時代末期まで続きました。

紫式部(土佐光起画、石山寺蔵).png

紫式部 土佐光起 画 石山寺蔵 江戸時代

鬢批鬢削ぎ/びんそぎ

●平安時代中期から江戸時代

 9世紀は唐風全盛の時代でしたが、平安時代中期に入ると隆盛を誇った唐が衰退。894年には遣唐使が廃止され、唐風模倣の文化は次第に日本独自の発展を見るようになります。

 

 女性の髪型も、頭上に髷を作る唐風から日本的な垂髪に移っていきました。それに伴い女性の成人の証であった「髪上」も変化します。以前は髪の毛先を頭上に引き上げ結んでいたものを、顔の両側の毛のみ短くするようになったのです。これを「鬢批(びんそぎ)」と言いました。

 古来の「髪上」の風習を受け継ぎ、多くの場合、結婚してから夫(又は婚約者)の手で行われました。

 貴族社会では女性の成人の儀式として「裳着」があります。「鬢批」は裳着と一緒に行われました。 平安時代における鬢批の作法は、それほど儀式的なものではなかったようですが、室町時代以降は固定した儀式となり、女性の一生の中でも大きな儀式の一つとなります。この風習は江戸時代まで続きました。

源氏物語絵巻.jpg

源氏物語絵巻(部分)平安時代末期

 肩下あたりで切り揃えた髪、又はその端を「下端(さがりば)」といいました。この「鬢批」の風習は、後に一般の女性から遊女に至るまで広がりました。

 「鬢批」の仕方は、室町時代の「大上﨟御名之事(おおじょうろうおんなのこと)」に詳しい記録があります。

 

 「びんをそぐも、十六からなり。そぎはじむるは、おとこそぐなり、碁盤の上にてそぐなり。びんの髪をわくる。額のすみのとをりから、耳をこしてもわくるなり。」

 

 「あぎ(顎)のしたをまはして、一方の額のすみから、わきめ(分目)をこして、わけたる方の額のすみにくらぶべし。但かみすくなくば、わきめにくらべべし。」

 

 鬢批は十六歳から(但し人によって早い遅いがあリました)。碁盤の上に乗って、夫(又は婚約者、近親男子)に切ってもらいました。

 鬢の髪を分けて、顎の下を廻し、反対側の額の端を伝って頭頂の分け目を越して、分けた髪の根本くらいで切るとあります。

 他にも「目の下一尺くらい」「額の生え際から二尺くらい」などと書かれたものもあります。

 鬢批の儀式の作法は、家や時代よって一定ではありませんでしたが、公家や武家の女性の大きな儀式として受け継がれていったのでした。

承安五節絵巻(模本).png

承安五節絵巻(模本)

月イメージ.png
かぐや姫の着物は十二単ではなかった?

 「いまは昔、竹取りの翁ありけり」で始まる竹取物語。誰もが知っている、竹から生まれた美しいかぐや姫の物語です。

 かぐや姫といえば、誰もが思い浮かぶ姿は、十二単に丈なす黒髪…という平安絵巻そのもののイメージではないでしょうか。まさに月岡芳年の絵のように。

 ですが、文中には「よき程なる人になりぬれば 髪上げなどさうして 髪上げさせ裳着す」 成人して髪上げしたとあります。ということは、髪を肩あたりで弛ませた唐風のヘアスタイルだったということ。垂髪(すべらかし)ではなかったようですね。

 

 では、着ていた着物は? 竹取物語は、源氏物語の中で「物語の出で来はじめの祖」と書かれているように、平安時代前期に成立した物語。いわゆる「十二単」(正式には女房装束(裳唐衣姿))は平安中期以降に生まれたファッションですから、竹取物語が作られた時代、まだ十二単はなかったのです。

 

 奈良時代から平安時代前期は、唐風ファッション全盛期。この時代の女性の服は、正倉院御物「鳥毛立女図屏風」などによって形を知ることができます。竹取物語の作者は、このようなゆったりとした服を着たかぐや姫をイメージして書いたのかもしれません。ヘアスタイルも唐風だったら、洋画家の満谷国四郎作「かぐや姫」の姿が近いでしょうか。

『月宮迎』(月岡芳年『月百姿』).jpg

『月宮迎』月岡芳年 (1839-1892)

 平安時代のお姫様といえば十二単を思い浮かべますが、実は平安中期の装束の詳細はよくわかっていないそうです。「源氏物語絵巻」などの絵巻物は100年以上後に描かれたものなので正確とは言えません。絵が残っていないため、文献から想像するしかないのが実情です。まして唐風から国風文化への移行期は尚更です。

 月に帰るかぐや姫は、悲しむ翁に「脱ぎおく衣(きぬ)を形見と見給え」と言い残して去ってゆきます。物語を読んだ当時の人々は、どのような衣を思い浮かべていたのでしょうね。

鳥毛立女図屏風.png

鳥毛立女図屏風

『かぐや姫』 1909年満谷国四郎.jpg

『かぐや姫』満谷国四郎 (1874-1936)

column
bottom of page