top of page

遊女「勝山」と外八文字

長陽堂安知_遊女立姿図部分.jpg

勝山髷の遊女

長陽堂安知 遊女立姿図(部分)

 江戸時代初期、吉原に人気の遊女がいました。名前は勝山(かつやま)。『勝山髷』の名前の元になった女性です。

 この勝山、新しいヘアスタイルを流行らせただけでなく、花魁道中の歩きかた『外八文字』を広めたとも言われています。その『外八文字』、今の花魁道中の歩き方とは少し違っていたようです。 

 もともと勝山は、江戸の堀丹後守屋敷前の摂津国風呂にいた湯女(ゆな)でした。湯女とは、銭湯で背中を流すなどのサービスを提供し、風呂上がりには三味線や小唄で客をもてなし、売春もする私娼のこと。湯女を置く風呂屋は江戸をはじめ諸国で流行し、人気の湯女を抱える湯女風呂は大繁盛しました。

 

 摂津国風呂は人気湯女を多く抱えており、まるで遊郭のようだったそうです。その中でも勝山は、編笠に袴姿、木太刀の大小という武士風コスプレで、町人や下級武士に大人気。男装の人気湯女として名を馳せました。

 そんな勝山の名を今に伝えるのが、彼女が考案した武家風の『勝山髷』です。髪型だけでなく武家風の服装を好んだことから、零落した武士の娘だったとも言われていますが、湯女になる前の経歴はわかっていません。

 大繁盛した湯女風呂でしたが、当時の江戸では幕府公認の遊廓以外の売春行為は違法。湯女風呂は取り締まりの対象となりました。勝山は吉原遊廓に身柄を引き渡され、承応二年(1653年)、吉原の遊女となります。もともと人気のあった勝山ですから、諸大名の家臣や豪商に贔屓客も多く、あっという間に最高位の太夫にまで登りつめました。

 さて、太夫になった勝山は、道中を行うことになりました。道中とは、吉原などの遊郭で、位の高い遊女が美しく着飾り、客が待つ引き手茶屋へ行列を仕立てて出向くことを言います。(花魁道中)

 歩く距離はわずかですが、着飾った禿や振袖新造、提灯持ちの男衆などを引き連れて、ゆっくりゆっくり歩く華やかなパフォーマンスでした。

 

 この道中の歩き方が『八文字』。「ハ」の字を描くように足を運びます。初めは京都の島原遊郭、大坂の新町遊郭、江戸の吉原遊郭でも、皆一様に「内八文字」でした。(島原、新町、吉原は幕府公認の遊郭)

 もともと『八文字』とは、傾奇者(かぶきもの)と呼ばれる派手な身なりを好む無法者たちの、意気がった歩き方でした。湯女や遊女にも真似をする者がいて、そこから遊女の道中に採用されました。

 湯女出身の遊女が道中をするのは初めてのことなので、評判の勝山がどんな道中をするのか、江戸中の話題になりました。中でも古参の遊女たちにとっては気になるところ。いくら人気があると言っても、所詮は新参者、どうせ大したことはないと笑うつもりで眺めていたようです。

 ところが、勝山は全く新しい『外八文字』を披露し、人々を驚かせました。

 「…裾蹴出して外八文字、肩居(すえ)てひねり腰…(中略)緋縮緬の内衣(ゆぐ)翻(ひるがえ)るやうに仕掛けて白き足首ちらりと高ももの移り見し時は、明日首切らるる銀(かね)にても、手前にあらば遣ふべき事ぞかし。」(『新吉原つねづね草』1689年刊)

 内八文字は半円を描いて足を回し込み引き足をしますが、外八文字は回し込んだ足を踏み開きます。(内八文字は爪先を内側に向けて「ハの字」を、外八文字は爪先を外側に向けて「逆ハの字」を作る) 

 足をぐっと踏み開くので、着物の裾がが割れます。その時、緋縮緬の湯文字(下着)の裾にオモリをつけて綺麗にひるがえるように仕掛け、白い足首から太ももあたりまでをチラリと見せる。大胆で男性的な足の運びに、時折チラリと見える白い足、という新しい八文字は、武張ったことの好きな江戸の人たちから喝采を浴びました。それ以降、京の内八文字、江戸の外八文字と言われるようになりました。

 

 さて、花魁道中といえば、大きな三枚歯の黒塗り下駄が思い浮かびますが、勝山の時代、履物は 草履か雪駄でした。いつから高下駄を用いるようになったかは諸説あるものの、享保(1716年〜)以降と考えられます。だんだんと高さも増していき、最終的には8寸(約24cm)ほどにまでなりました。 

 この道中下駄にすげる緋色の天鵞絨(びろうど)鼻緒を、「勝山鼻緒」と言います。当時は地味な履物だったので、緋の鼻緒で華やかになるよう、勝山が工夫したそうです。これは一般女性の間でも流行したとか。ファッションセンスあり、度胸あり、パフォーマンスの才能もある女性だったのですね。

 髪型や鼻緒に名を残し、江戸に新しい八文字をもたらした勝山。彼女が考案した『勝山髷』は、少しずつ形を変え、最終的には武家の女性や既婚女性が結う『丸髷』となりました。丸髷は昭和まで結われ続け、勝山は約300年も女性の髪型に影響を及ぼしたといえます。

 廓(くるわ)を退いてから、彼女がどうなったか記録はありません。どんな生涯を送ったのでしょうか。今となっては知るよしもありませんが、苦界と言われた吉原を、華やかに逞しく生き抜いた女性がいたことは覚えておきたいと思います。

bottom of page