

江戸時代前期〜中期はじめ頃

遊女立姿図/長陽堂安知
宝永(1704-1711)から
延享(1744-1748)頃

A

B
年代
特徴
結い方
【勝山髷】 勝山髷の始まりは諸説あるが、遊女勝山が屋敷風に結った髪型が勝山風として流行したというのが定説となっている。勝山は承応2年(1653)に吉原の遊女になっており、その頃から始まったと思われる。
【鴎髱】 延宝(1673-1681)頃から髱(つと・たぼ)を首に沿わせて長く伸ばすようになった。この形の鴎髱は延享(1744-1748)から宝暦(1751-1764)初め頃に髱刺しが一般化するまで続いた。
【勝山髷】 古くは輪の部分が縦に長かった(図1)。後世になるほど輪が横に広がり、江戸時代後期は丸髷となる。
初期の勝山髷を描いたものは笄を使っていない。代わりに簪を髷の上に縦に差している。これは、髷を輪にして根で留めただけでは安定しないため、髷を固定する必要性からと考えられる。 また、勝山髷は根の上の髪が丸まった部分も大きな特徴の一つである。初期の勝山の絵には丸い部分が描かれているが、中期以降は髷の幅が広がったため丸い部分は見えなくなっている。
【鴎髱】前期の髱は、首筋に沿って長く下に垂らしたもので、その形から「鴎髱(かもめづと)」「野鶏髱(きじづと)」などと呼ばれた。江戸時代前期を象徴する髱ではあるが、京では流行しなかったようで、前期の評判記である藤本箕山著「色道大鏡」に「髪のつとをする事いやしき業成。さればにや京の女郎につとをこのむものなし。大坂は大郭なれども、田舎なる故にや髪のつと専成。」とある。そのためか、貞享・元禄頃から少し髱を短くする傾向があったと「近世女風俗考」にある。
【勝山髷】 結い方は大正・昭和期の風俗史家である江馬務氏によると、「髪を百会にて束ね、上へ曲げて輪とし、髪の先を前の束ねた部分で折り、結びつけ、百会の所及び先の部分で輪の上方に各白元結をかけたのである。(江馬務著作集より)」とある。その結い方で結ったのが写真D。ただ、この結い方では髷が安定せず動くたびに左右に傾いてしまう。簪を縦に刺すと多少は固定されるが、不安定であることに変わりはない。
写真A 〜Cは、現在の京都の舞妓さんが祇園祭の時に結う勝山と同じ結い方で結ったもの。(現代の舞妓の勝山は横幅が広い形に変化した) 根で束ねた髪を輪にして根で結び、余った毛先を根元に巻きつける。髷の前側で根元近くを折り込み根で括る。この結い方の方が安定するので、初期の頃は不安定だった髷の結い方が、工夫されて次第に変わっていったものと思われる。

C

D
前期〜中期はじめ頃の勝山髷

図1
勝山古図/近世女風俗考
天保年間(1830-1843)末期頃作 延宝・天和(1673-1681/1681-1684) の古画を写す

勝山髷之詳圖 /歴世女装考 弘化4年(1847)
山東京山 *天保8年(1837)に京山写す
画軸に宝永 乙酉(ほうえい おつゆう) /宝永2年(1705)の落款あり

百人女郎品定 西川祐信/ 画 享保8年(1723)

美人図/懐月堂度辰 正徳から享保(1711-36)